世界陸上2019ドーハ 男子砲丸投げプレイバック&分析

史上最高のプッター達

2019年10月3日。男子砲丸投げ決勝。この日は砲丸投げの世界にとって歴史的な一日となった。

22mスロワーが6人、スタネクまで入れると7人のトップ選手が終結。役者は揃っていた。

まず今回の注目は32年据え置かれた大会記録の更新—1987年第二回ローマ大会でウェルナー・ギュンターが投げた22m23だ。

前回大会では予選でウォルシュが22m14の大投擲をマークし、決勝でクルーザー、コバクスとの競り合いによる更新を確実視されたが22m03で及ばず。

 

試技順の妙

試技順はクルーザーが1番目、ロマニが4番目、コバクス7番目、そして前回覇者ウォルシュが12番目の最終投擲者という運命のいたずらを思わせるような順番。

クルーザーは今季22m74を投げ現役世界最高をウォルシュから奪還し、優勝候補最有力のワールドリーダー。五輪記録は塗り替えた。次は世界陸上だ。

ブラジルのロマニはこの数年で急激に力をつけてきた選手。今季22m61の世界歴代10位、世界ランク2位の記録をマークし、こちらも優勝候補の一角として名乗りを上げてきた。世界大会の最高順位はリオ五輪の5位(室内大会除く)。
なんとしてでもメダルが欲しいところだ。

コバクスも今季22m31を投げて復調。記録では若手に先を越されたが、最年長の意地を見せられるか。

ウォルシュはディフェンディングチャンピオンとして大会2連覇を目指す。SB22m44、予選で21m92と視界は良好だ。

 

22mのメダル争い

最初の投擲者クルーザーの一投目。特徴的なゆったりとしたターンから放たれた砲丸は22mラインを大きく超えた。

22m36。決勝のまさに最初の一投目,一人目で大会記録を更新して見せた。この32年は一体何だったのか、と思わせるほど余裕のある軽やかな一投だった。

大会新記録を出しガッツポーズをするライアン・クルーザー

 

 

ロマニは21m61を投げ2位につけた。コバクスは20m90とまだエンジンがかからず。

このまま22m36で優勝してもおかしくはないが、しかし最後の投擲者にウォルシュがいる。

 

そのウォルシュの一投目。目にも止まらぬ高速ターンで指先からはじき出された砲丸は、22mラインを1mほど超えた。これには日本の実況放送で解説をしていた日本大学の小山裕三氏も「右足左足のつき方、位置が完璧」と太鼓判。

22m90。世界歴代4位に浮上しただけでなく、世界記録まであと22㎝まで迫る大記録だった。このまま優勝かと思わせる大投擲だ。

 

アレッサンドロ・アンドレイの22m91に次ぐ、22m90の世界歴代4位をマーク

 

その直後に2投目のクルーザー、22mは超えたもののファウルをしてしまう。

そうこうしているうちにロマニが自己ベストに迫る22m53の大投擲で2位に浮上し、クルーザーが3位に後退。コバクスも調子を上げ21m63とまずまずの投げ。

2投目時点で既にメダルラインが22m36という前代未聞のレベルとなり、勝負はますます過熱していく。

ウォルシュがトップのまま4投目。クルーザーが22m71を投げロマニを逆転し2位に浮上。

ロマニは22m13と2投目から22m超えを3連発するも記録は伸ばせず。

コバクスも不気味ながら21m95まで伸ばしてきた。

ウォルシュは一投目が良すぎたのか、三回連続ファウル。あまりに一投目が良すぎてかえって試合運びが難しくなるという状況に。

 

【過去のチャンピオンがいても……】
大会記録が3人ということは、例えギュンターやゴディナ、キャントウェルらがいたとしてもこの日はメダル圏外だったということになる。
いかに凄まじいレベルだったかお分かりいただけるだろう。

 

劇的な幕切れ

5投目、ウォルシュようやく投擲を成功させたが22m56と一投目の22m90を更新できず。

とはいっても、当たり前のように22mを投げる三人には驚くばかりだ。

このウォルシュの22m56でさえ、2000年代に活躍したキャントウェルら3人の自己ベストを上回る記録である。

 

そして運命の6投目。最終投擲は5投目終了時点での順位により試技順が決まるため、コバクス、ロマニ、クルーザー、ウォルシュの順番で投げることになった。

コバクスの6投目。大絶叫とともに放たれた渾身の一投は、一直線に飛び22mラインを大きく超えた。

大歓声に沸く場内。

22m91。自己ベストを一気に34㎝も更新したばかりか、もはや破れないと思われたウォルシュの22m90をわずか1㎝の差で上回ったのだ。

近年は若手の躍進で記録的には後れを取っていたコバクス。しかし2015年以降毎回銀メダル以上を取る安定感、また練習試技で24mを投げたという持ち前の爆発力を遺憾なく発揮した瞬間だった。

ロマニはまさか思っていなかっただろう。22m53でメダルすら確定しないとは。

集中する暇もなかったのか、ロマニの6投目は雄叫びにも覇気がなく22m手前で落下。最後は自らファウルにし、4位が確定した。言うまでもなく22mでメダルなしは史上初。投擲後の落胆した表情が印象深く、不憫に思えたほどだ。

そしてクルーザー。大会前ランクトップの意地を見せるか。

いつも通りのスローターンからやや右に砲丸が逸れたがまたしても大投擲。しかし22m90でわずかに及ばず。

セカンドベスト(クルーザー:22m71 ウォルシュ:22m56)の差でクルーザーが再び2位に浮上。

記録が出た後の「Ahhh!」という声、そして表情から悔しさの中にも満足感がうかがい知れるようだった。この記録で負けるなら仕方ないということだろうか。

ドーハ大会の最終投擲者、トマス・ウォルシュ。22m90を投げておきながら最終投擲で3位まで後退するとは、本人を含め誰が予想しただろうか。

会場のボルテージが最高潮の中、投げるウォルシュ。だが、投げた後バランスを崩し最終投擲はファウルに終わった。

コバクスが金、クルーザーが銀、ウォルシュが銅。ロマニ4位。大会前は3強の対抗馬くらいに思われていたコバクスだが、ふたを開けてみるとそこに割って入った形となった。

思えば初めて尽くしの大会だった。最多22mスロワー、予選記録突破12名、複数人大会記録・22m越え等々……。

そして極めつけは金銀銅がわずか1㎝の差で決まったことであろう。史上最もハイレベルな戦いは、史上最も僅差の勝負で幕を閉じた。

アベレージはウォルシュやクルーザーのほうが高いが、例え一投でも、例え1㎝でも遠くへ投げれば勝者となるのが投擲競技。これぞまさに投擲の醍醐味。

”一発の重要性”を改めて思い知らされた大会だった。

 

コバクスの勝因

さて、私なりにコバクスの勝因を考えていこうと思う。

主な勝因は2つ挙げられる。

1.妻の献身的なサポート

2019年の2月、コバクスは決断を迫られていた。彼は引退を考えていたのである。

コバクスの妻、アシュリーは元砲丸投げ選手であり、彼のコーチを務めている。また、ドーハ大会における米国男子投擲陣のコーチに選抜されていた。

そのアシュリーはこう言い放った。

辞めたいのなら辞めてもいいわ。どちらにしてもあなたをサポートするつもりだもの

2018年シーズン、不調に喘いでいたコバクスは当時のコーチの勧めでアシュリーに指導を任せることにした。

彼女の指導の下、以前よりもウエイトトレーニングや俊敏な動作を身に着けるトレーニングを強化した。それまでは筋力の維持のみに努めていたようだ。

彼にとってアシュリーのコーチングは「collaboration(協力)」であり、食事・休息・睡眠等様々な面で彼女に頼るようになった。「通常のコーチのそれよりも彼女に対する信頼は強く、それは大きなアドバンテージだ」と自信あり気に言う。

6日後に決勝を控えた日曜日、練習で自己ベストを上回る投擲を3度記録し、年に数回しかないくらいの好感触を得た。だが翌日の練習では投擲が全く上手く行かず、沈鬱な面持ちだった。

それを見たアシュリーは「今日はもう部屋から出なくていいわ。寝て回復に努めるのよ」といって一日中コバクスを部屋から出させなかった。

そうして回復に努めた結果、決勝の朝は見違えるようだった。

決勝も中盤に差し掛かったころ、ウォルシュを筆頭に既に22mスローが連発していた折、コバクスは彼女にアドバイスを求めた。

「安心できる投げなんてない。22mでもファウルと同じよ。自己ベストでもファウルでもいいから大きな投擲を見せて」

それが彼女からの最後の言葉だった。

そして6投目の22m91へと繋がるわけだが、彼はトップに立ったことにさえ気づいていなかったのだとか。自己ベストを投げた、ということだけはわかっていたようだ。

コバクスのアシュリーに対する全幅の信頼、そして彼女の的確なアドバイスが“colloaboration”した結果が金メダルにつながったのだろう。

 

競技終了後、すぐさま妻アシュリーの下へと駆け寄ったコバクス。 夫婦”二人三脚”で掴んだ金メダルだった。

 

 

【引用】

worldathletics.org

Shot put star Joe Kovacs on the woman who turned his career …

 

ちなみに、コバクスの前のコーチはアート・ヴェネガス。かつて世界陸上を3度制したジョン・ゴディナのコーチを務めていた名伯楽。

 

2.終盤までメダル圏外

アシュリーのサポートはもちろん、試合展開にも鍵があると私は思う。

コバックスは過去4年の五輪・世界陸上を振り返ると、序盤メダル圏内につけて終盤追い上げる、という展開が多かった。

ところが、終わってみると15年の北京大会以外はその日のベストは3投目以内に出ていた。

何故かというと、5投目6投目で大投擲を見せるもいずれもファウルに終わっているからだ。

2016年リオ五輪。クルーザーに22mを投げられて終始2位で追っていたコバクスだが、5投目に22mラインを超える大投擲。

しかし足留材に足が触れ惜しくもファウル。結果、その日のベストは1投目の21m78。

2017年ロンドン世界陸上でも同様に、ウォルシュを2位で追い続けた6投目。22mを超えてあわや大逆転かと思われたがまたしても足留材に足が触れファウル。

ところが今大会は、シーズントップ3による大投擲の応酬から一歩離れたポジションにいた。

勝つかどうかよりも、とにかく大投擲をすることだけに精神を集中できたのは、妻の言葉はもちろん、4位という順位につけていたことも関係していたのだと思う。

ある意味で、“吹っ切れた”状態にあったのではないか、とさえ思える。従来コバクスなら22m91もファウルで幻の記録となっていたかもしれない。

アシュリーという精神的支柱ができたこと、22mのデッドヒートの重圧外にいたことが肩の力を抜く要因になったのではないかと、私は思う。

 

現実味を帯びてきた世界記録

投擲種目はここ2,30年、どの種目も世界記録にはなかなか近づけないでいた。

それだけに今回の記録ラッシュには驚いたし、2020年以降の世界記録誕生についても大きな希望が持てる結果であった。

競技力、という観点で見ればウォルシュ、クルーザーは80年代の選手より完全に上と言っていい。80年代の選手はベストこそ立派だが、アベレージやセカンドベストは必ずしも高くないからだ。

グライド全盛の安定志向(語弊があるかもしれないが)にもかかわらず、セカンドベストが30㎝以上離れている選手がほとんどで、22mの記録回数もそれほど多くはない。

ウォルシュは21回、クルーザーに至っては36回も22mスローをマークしている。この二人が世界大会で活躍しだしたのはここ4,5年ほど。

この2人だけで80年代の61回に迫る57回の22mスロー。80年代の選手と比較しても実力の高さがうかがえるだろう。となると、残すはあと一つ、23m12の世界記録のみである。

コバクスは二人には安定感で劣るものの、22m越えは13回と立派なもの。持ち前の筋力を活かした大砲がいつ爆発するか、ロマンのある選手だ。

ロマニは22m超えは7回だが、この数年で急速に伸びてきた選手。東京五輪では是が非でもメダル、いや金メダルが欲しいところだろう。この悔しさをバネに、ビッグ3、ビッグ4として切磋琢磨してもらいたい。

その他、若手のブコビエスキ(ポーランド)ら22mプッターの躍進にも期待しよう。

 

世界記録はランディ・バーンズ(アメリカ)が30年保持している。
この“疑惑の記録”に終止符が打たれるのはもうすぐなのかもしれない。

 

 

【三人の中で……】
個人的に世界記録に一番近いのはクルーザーだと思っている。
ウォルシュ、コバクスともに完璧な投げをしているのに対し、クルーザーの6投目はやや砲丸が右にずれ、上手く突き出せていないように見えた。元々の安定感は言うまでもなくピカイチ。
ただ可能性で言えばメダリスト3人誰が出してもおかしくはない。

 

今年、東京五輪がコロナウイルスのせいで延期になってしまったのは非常に残念である。投擲選手として円熟期に差し掛かった彼らだが、いつまでも記録は伸び続けるものではない。

それを思うと、貴重な1年を棒に振るのはなんとも不憫である。今年は英気を養う年として、上手く来年以降へつなげていってほしいものだ。

最後に断言する。今こそが間違いなく歴史上一番の砲丸投げ黄金期であると。

世界陸上2019 男子砲丸投げ決勝